メアリー・シェリーと『フランケンシュタイン』:夢が紡いだ創造と倫理の物語
はじめに:夢から生まれたゴシック文学の傑作
メアリー・シェリーによる不朽の名作『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』は、1818年の出版以来、その深遠なテーマと文学的革新性によって世界中の読者を魅了し続けています。この作品が単なる恐怖小説に留まらず、生命の創造、科学的倫理、そして人間の責任といった普遍的な問いを投げかける文学として認識されていることは広く知られております。しかし、この壮大な物語の着想が、作者自身の見た鮮烈な夢に深く根ざしていることは、創作における夢の役割を考察する上で極めて重要な側面であります。本稿では、『フランケンシュタイン』がどのようにしてメアリー・シェリーの夢から生まれ、文学史においてどのような意義を持つに至ったのかを、その歴史的背景と学術的視点を交えながら詳細に解説してまいります。
創造の起源:メアリー・シェリーと夏の夜の悪夢
『フランケンシュタイン』の誕生には、1816年の「無夏の年」として知られる異常気象の夏、スイスのジュネーブ湖畔にあるディオダティ荘での出来事が深く関わっています。詩人バイロン卿の別荘に集まったメアリー・シェリーとその夫パーシー・ビッシュ・シェリー、バイロン卿自身、そしてジョン・ポリドーリ医師らは、悪天候のため屋内に閉じこもる時間が多く、それぞれの恐怖小説を書き合うことになりました。
メアリー・シェリーは当初、アイデアに苦慮していたと伝えられています。しかし、ある夜、バイロン卿とパーシー・シェリーが生命の原理やガルヴァーニ電流による死体の蘇生について議論しているのを聞いた後、彼女は鮮烈な悪夢を見ます。その夢は、まさに『フランケンシュタイン』の物語の核心となるイメージであったとされています。彼女は後にその体験を次のように記しています。「私は、この世に命を与えられた不吉な創造物の蒼白い学生が、彼が作ったものの傍らにひざまずいているのを見た。それは、人間がその傲慢な企てから目覚める時、その想像力の産物が彼を震え上がらせるはずだという悪夢でした」。
この夢の中で、彼女は生命のない存在が目覚め、創造主である学生ヴィクター・フランケンシュタインに恐怖と嫌悪を抱かせ、彼を捨て去るに至る過程を幻視しました。この強烈なイメージこそが、『フランケンシュタイン』の物語の出発点となり、彼女はこの夢の具体的な情景を基に、物語の構想を練り上げたのです。夢が単なる無意識の産物ではなく、創造的なインスピレーションの源泉となり得ることを示す典型的な事例と言えるでしょう。
文学史における『フランケンシュタイン』の意義と時代背景
『フランケンシュタイン』は、単に「夢から生まれた作品」というだけでなく、19世紀初頭の文学的・文化的潮流の中で極めて重要な位置を占めています。この作品は、ゴシック文学の傑作の一つとされており、その特徴である暗い雰囲気、超自然的な要素、そして心理的な恐怖が深く描かれています。同時に、当時のロマン主義文学の潮流も強く反映しており、個人の内面、感情の探求、そして自然や未知への畏敬の念が物語の背景に流れています。
また、出版された1818年という時期は、産業革命が進展し、科学技術が急速に発展していた時代と重なります。ガルヴァーニ電流による死体蘇生の実験など、当時の最新の科学的知見や技術への期待と不安が社会全体に漂っていました。メアリー・シェリーは、そうした時代精神を敏感に捉え、科学の進歩がもたらす可能性と、それが倫理的・道徳的な問題を置き去りにする危険性について、深い洞察をもって物語に織り込みました。ヴィクター・フランケンシュタインの「生命を創造する」という野心は、当時の科学者たちの探求心と共通するものであり、その結果として生まれた「怪物」は、無責任な創造がもたらす悲劇の象徴として描かれています。
夢の心理学的・哲学的考察と作品の多層性
『フランケンシュタイン』の物語に、メアリー・シェリーが見た夢が深く関わっているという事実は、夢というものが人間の深層心理と創造性にいかに影響を与えるかという点について、学術的な考察を促します。心理学の分野では、夢は個人の願望、恐れ、抑圧された感情、あるいは集合的無意識の表出であると解釈されることがあります。メアリー・シェリーの見た夢は、彼女自身の文学的創造への欲求、当時の科学技術への関心、そして人間存在や生命に対する深い問いが、無意識のレベルで統合された結果であるとも考えられます。
作品の中で「怪物」が自らの創造主に見捨てられ、孤独と絶望の中で人間性を失っていく過程は、フロイトの精神分析学における「無意識の抑圧」や、ユングの分析心理学における「影」の概念にも通じるものがあります。創造主ヴィクター・フランケンシュタインが自らの創造物に対して抱く恐怖と嫌悪は、彼自身の無意識下にある「影」の部分、つまり受け入れたくない自己の一面を投影しているとも解釈できるでしょう。夢が示唆する創造と破壊、生命の尊厳、そして責任というテーマは、人間の本質的な問いかけと密接に結びついており、作品に多層的な意味を与えています。
結論:夢から生まれた普遍的な問いかけ
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、単なるゴシックホラーの枠を超え、夢という個人的な体験から生まれた普遍的なテーマを内包する文学作品として、今日までその輝きを失っていません。作者自身の鮮烈な夢体験が物語の核となり、当時の科学技術の進展や社会情勢が背景にあることで、作品はより深遠な意味を獲得しました。
この作品は、創造主が自らの創造物に対して持つべき責任、科学の倫理的な限界、そして社会から疎外された存在の悲劇という、現代社会においてもなお議論され続ける重要な問いを投げかけています。夢という無意識の領域から紡ぎ出された物語が、いかにして人間の理性や社会のあり方について深く考察させる傑作となり得るのか。『フランケンシュタイン』は、その力強い証左であり、夢とアートの関連性を探求する上で欠かせない一例と言えるでしょう。